産後うつ入院生活6日目。何もしない彼女

記事

お風呂の時間が苦手でした。

服を脱ぐところから身体を洗うところ、服を着るところまでが監視下です。

産後1カ月未満だったので、私は湯船に入れませんでした。

寒くて震えたけれど、そんなことよりも視線にさらされての入浴は辛かった。

髪を洗っていても、きちんと洗えているか分からない。

この時もまだ頭と身体がバラバラで、自分の身体なのに他人の物のようでした。


憂鬱な入浴時間の中で、彼女はひときわ目を引きました。

チハラさんという女性は見た目は30代くらいで、明るいボブヘアー。

ひょっとしたら20代かもしれませんが、話をしたことがないので分かりません。

というか、誰とも話をしないのです。

それどころか、私は入院していた1カ月間、1度も彼女の声を聞いたことがなかったのです。

ぼうっとうつむいて立ったまま、チハラさんは看護助手さんの手によって洗われていきます。

それどころか、服を脱いだり着たりするのも介助されていました。

チハラさんの身体が不自由というわけではなく、自分で入浴する意思がないのです。

拒否しているわけでもなく、ただただ従順にされるがまま。


日中は個室から出てくることはなく、食事の時だけ食堂に連れてこられます。

食事は食べられてますが、片付けなどは一切しません。

食べ終わったら食器をそのままに、薬だけ飲んで自分の個室に戻ります。

言葉を忘れてしまったのか、声にすることを封じてしまったのか。


いつだったか、チハラさんが外泊したことがありました。

外へ出るには主治医の許可が必要です。

そして、外出・外泊するにも自分から主治医に申告するというルールです。

ひょっとしたらチハラさんは、主治医の前では話すのではないだろうか。

そんな疑問が湧きましたが、確認するすべなんてありません。

そんなチハラさんが、1泊だけして病棟に戻ってきました。

ご両親らしき2人に両腕を抱きかかえられるような形で、ほとんど引きずられるような状態です。

何があったのか、どういう状況なのか分からないまま、看護師さんに引き取られて個室へと消えていきました。


あぁ、チハラさんは、自分の意志で外泊したんじゃないんだな。

きっとご両親の意志で決まったことだったんだろうな。

彼女にとって、外の世界はここよりもっと生きづらいんだ。

なんとなくそう思ったら、なぜか納得しました。

何も話さず人形のように生きるチハラさん。

心がどこかへ行ってしまったチハラさん。

きっと彼女も常連さんです。

今、どこでどんな風に生きているのか。

6年経った今でも、ふとした瞬間に彼女うつむいた横顔を思い出すのです。


タイトルとURLをコピーしました