前回のシャンプー事件でいなくなったイイノさんは、1日して戻ってきました。
特に何か言うわけでもなく、これまで通り病室にいなく、
「どうしてシャンプーを飲んだのだろう?」
という疑問だけが私の中に残ったのです。
すると、そんな私の考えを見抜いたのか、アイダさんが話してくれました。
「イイノさんはね、前にも同じことしたのよ。シャンプー全部飲んだって、どうにもならないのにね」
ODの代わりにもならない、という意味なのかなと思いました。
そしてやっぱり、アイダさんは淡々と話します。
私はその口ぶりから、アイダさんも常連さんなのだと確信しました。
週に1度、リネンの日があります。
枕カバーやシーツ、掛け布団カバーを剥がして畳み、廊下に置いておきます。
半日すると新しいのが渡され、各自自分でベッドメイキングをするのです。
私の頭はまだ半分以上使い物にならない状態で、渡された新しいリネンをどうしたらいいか分からず途方に暮れていました。
そんな時、アイダさんが色々と教えてくれたのです。
アイダさんは口数は少ないですが、当たりの柔らかな面倒見のいい人でした。
どうしてここにいるのかと訊かれたので、産後うつになったからだと答えれば、アイダさんが言いました。
「私はね、ここへは疲れた時に来ることにしてるの」
そのままの意味で取っていいものか考えましたが、新参者の私が考えたところで分かりません。
真意はどうあれ本当に、アイダさんはずっと眠っているのです。
常連さんだからこそ、編み出せた入院生活法なのかもしれません。
ここで病棟のタイムスケジュールを説明すると…
7:00 起床
全病室の電気が自動的に点く
7:30 朝食
食事の時はテレビを消す
食後の薬
8:30 検温
9:00 ラジオ体操
任意参加
10:00 入浴
週3回 入らないとチェックされる
12:00 昼食
食後の薬
14:00 レクリエーション
任意参加で2日に1回くらい。
絵を描いたりストレッチしたり、アイロンビーズしたり色々
15:00 面会
18:00 夕食
食後の薬
21:00 消灯
必要な人は眠剤
こんな感じです。
ラジオ体操は任意だけど、体操している人は誰だとかのチェックが入っていました。
お風呂もそうですし、レクリエーションも同じでした。
体育館みたいなホール?があるのか、バドミントンなどスポーツをするレクもあったそうです。
けれど、私は1度も参加しませんでした。
というのも、面会時間に母や夫と会う方が大事だったからです。
2人は毎日必ず面会に来てくれ、本当に感謝しかありませんでした。
多分、来てもらえなかったら発狂していたかもしれません。
1日目で書きましたが、何をしたらいいか分からなかったからです。
ちょっと想像してみてください。
・あなたは今日から1ヶ月、外に出ることができません。
・スマホやパソコンは触れません。
・個人スペースはベッドのみです。
・窓を開けてはいけません。
・家事をしてはいけません。
いかがですか?
何もしなくていいとか最高じゃん、そう思いますか?
確かに何もしなくても食事は用意されるし、掃除も洗濯もしなくていい。
スマホには触れないけど、テレビを見たり本を読んだりすることはできます。
でも、その程度です。
何もしなくていいというのは、すぐに何をしたらいいか分からないへと変貌するのです。
入浴もシャワーもレクリエーションもない土日は、本当に地獄でした。
することが何もないのです。
ただひたすらテレビを見たり本を読んだり、塗り絵をしたり折り紙をしたりして。
時間を効率よく消費できないかと考えていました。
アイダさんのように昼寝ができればよかったのですが、私にはそれが怖くてできませんでした。
目が覚めたらすごく時間が経っていた、なんてことになったらどうしよう。
そんな恐怖があったのです。
どう説明すればいいのか分かりません。
ただ、早く時間が過ぎて欲しいという気持ちと同じくらい、無為に時間が過ぎて欲しくなかったのです。
何かしなくちゃ、早く治すために何かしなくちゃ。
私の頭の中は、ずっとそれでいっぱいでした。
何度同じ質問を主治医にしたかしれません。
「先生、治すためには何をすればいいですか?」
時に出勤の出待ちをして、時にナースステーションから呼び出して。
私は縋るように主治医に訴え続けました。
それでも、返ってくるのはいつも同じようなセリフばかり。
「何もしなくていいんじゃない?」
頭の中でぐるぐると言葉が回り続けました。
テレビは相変わらずメリーゴーランドだし、本は文字がこぼれ落ちていく。
漫画はかすかに記憶できるけど、1話読むのが精一杯。
折り紙は鶴の折り方を忘れ、塗り絵はすぐに集中力が切れて最後まで塗れない。
何もしなくていい、が辛すぎる。
そんな時、サトウさんと出会ったのです。